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| 『艱難汝を玉にす』 |
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| 2008.07.12 |
朝の4時までかけて書き上げた5ヶ月ぶりのコラムが一瞬にして消えてしまい、あまりのショックに、データのリカバリーよりも、自身のリカバリーに時間がかかってしまったが、なんとか気を取り戻して再度書き直している。
2008年は元旦早々「石井テニスアカデミー」としても、「石井家」としても、とんでもないスタートをきってしまい、気づけば雪が降る季節も、桜が散る時期もとっくに過ぎてしまっていた。甲府店のオープンは目的も夢もぼやけてしまうほど、目前の仕事に追われ、店舗拡大の喜びに浸る余裕も隙もなく、現役引退後アカデミーを立ち上げた頃の苦労なんて「ありんこの心臓」のようなものだったのかもしれない、と一日の終わりに顔に縦線が入ることがいまだ、よくある。(笑)しかし、これからだ。毎日経営の難しさと面白さを学びながら、自分の理想に近づいていきたい。
もう一つ大きく動いた事は、僕の嫁さん・映子、息子・大樹と娘の映里、3人が1月にオーストラリアへ移住するため、日本を発ったことだ。これまでに、何度彼らをこの空港で見送ったことだろう。それなのに、今回は胸を砕かれそうな感情に鈍感になろうと、つまらない演技でごまかそうとするほど、逆の効果を引き出しているように思えた。大樹と映里が生まれてから、これまでは「子育て」というテーマに全く興味がなかった僕でも少しは反応するようになっていたが、彼らが自分の感情や考えを言葉で表現するようになってから、映子の教育方針がまわりと少し違うことにも薄々気づいていた。彼女は6年かけて僕を説得してきたと言えるだろう。課題を出せば、結果を出してきて僕をうなずかせてきたんだから。誰よりも頭と体と心をつかって生きている。情報が溢れるこの世の中で、大切なものを見失いがちなこの時代に、自分の子育てを貫きとおす強さを持っている彼女が決めたことだから、僕は去年の10月、腹をくくって、「行ってきなよ。」と彼女に電話したんだ。たしか僕は渋谷あたりにいたのだけれど、街の雑音がミュートになったのを覚えている。
この二つの大きな動きが重なったのは僕にとって良かったのかもしれない。甲府店の立ち上げで、寂しさで参っている体力なんてなく、ほぼ毎晩帰宅しては風呂で寝てしまい、溺れて起きるという危ないパターンを繰り返したりしていたし、むしろキツイ時ほど彼らを想うだけで、気力が充電され、踏ん張りがきいた。
一方映子の方は、オーストラリアの文化と習慣の違いや、慣れない生活環境で、よく泣きながらもなんとか1学期を終え、学校の休みをつかって桜が満開の美しい季節に一時帰国をした。互いに少しやつれた顔を茶化し合いながら、シャンパンでほろ酔い気分になり、少し肌寒い夜道を散歩しながらゲラゲラと、ここ数ヶ月の苦労(?)を笑い飛ばした。こんな時間が僕達にはものすごく必要だったのかもしれない。大樹と映里は新しい学校や友達の事を夢いっぱい話してくれ、「そう。この子達が本当に楽しそうだったことが唯一の救いだったの。」とぽそり言った映子の表情が気になっていたが、成田を再び発つ前日の夜に「でもね。神様が半年前に時を戻してくれて、ここ数ヶ月の知識もくれて、オーストラリアに行く選択をまた与えてくれて、やり直しがきくとしても、私は同じ決断をした。」と言いきった彼女に僕はいつまでもエールを送りつづけたい。
2008年は僕達にとって、新たな風が吹き始める「挑戦」の年となりそうだ。生きている喜びというのは、多少の苦労があって、手に入れられる“幸せ”なんじゃないかと、色々な事を覚悟しながら、今度こそは失うまい!と、しつこいぐらいに、このコラムを「上書き保存」している。



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